技にこだわらなくていい けん玉は創造と想像の源
「保育園の頃からけん玉はやっていますよ。もちろん見よう見まね。でも、当時は『ニッサン』って呼んでてね、今のけん玉と違って得点を競うゲームだったから、邪魔になる糸は切っちゃってたな」と目を細めながら懐かしそうに語るのは、廿日市出身・在住のけん玉名人 砂原宏幸さん。
廿日市で、いや広島でけん玉に関わる人であれば、その名前を知らない人はいないほど、日々けん玉の普及に精力的に力を注ぐけん玉伝道師であり、けん玉の「先生」です。
子供の頃からけん玉に親しんできた砂原さんですが、意外にもけん玉が廿日市発祥だと知ったのは、後に小学校教諭としてけん玉を子どもたちに教えるようになってからのことでした。
教員になって再会したけん玉
「高校生ぐらいになるとなんとなくけん玉を卒業していたんですが、再会したのは平成元年、小学校の先生になってから。その後赴任した小学校にはけん玉クラブもあったりと、『やっぱりけん玉って大人になってからでも面白いなぁ』と再確認しました。次の赴任校では、当時廿日市で唯一けん玉を製造していた共栄玩具から、各クラスに3つずつけん玉を置くことになって。せっかくあるけん玉ですから、子どもたちに楽しんでほしいでしょう?『誰も教えられないなら、自分が教えましょう』と。そこからが本気ですよ!」と砂原さん。
日本けん玉協会からビデオや本を取り寄せて基本からけん玉を猛特訓。けん玉クラブも発足させ、「子どもたちと一緒になって競い合いながらの切磋琢磨です。私も童心にかえって、みんなで一生懸命練習しました。」
けん玉は廿日市発祥・・・感動が心に火をつけた
けん玉が廿日市発祥だと知ったのは、砂原さんがすっかりけん玉に魅せられるようになってから。「こんな素晴らしいけん玉が、こんなに人を熱くさせるけん玉が、廿日市で初めて造られたんだ、と。この感動が、私の心に火をつけたんです。」
いつの間にかけん玉名人として知られるようになっていた砂原さんは、けん玉ステージを頼まれるようになったり、「廿日市けん玉クラブ」を設立したりと、どんどんとけん玉へ邁進するように。「子どもたちが競い合い、上手になった姿を見せられる場が作りたい」とけん玉大会も開催するようになりました。
「教員の仕事ももちろんしながら、365日休みなく、年末盆正月もけん玉の生活です。とにかくけん玉が楽しくて仕方がなかった!」と、砂原さんは笑顔で振り返ります。その後、「教員かけん玉のどちらかに絞って集中したい」と一念発起。53歳で退職し、けん玉を人生の中心に据える人生を選んでの今に至ります。
けん玉の技で培った自信が、人生に生きてくる
「例えば、『自分には絶対できない』と思っていた技が、練習を重ねてできた時の、あの喜び。『私にもできるんだ!』というあの充足感は、大人も子供も関係無いんです。子どもたちの間でけん玉が広まっていく中で、昨日まではいじめられっ子だった子が、けん玉で自信をつけることでいつの間にかいじめられなくなっていく。そういう姿も見てきました。けん玉は、けん玉と自分の1対1の戦いです。時には、大勢が見ている前で技を決めなくてはいけない。技への挑戦の中で鍛えられた強い心は、人生の他の場面でも生かされます。そんな子どもたちの姿を見たから、私は、どんな子どもたちにもけん玉を広めていこう、と心に決めたんです。」
けん玉はシンプルだからこそ無限の広がりがある
教育者としてのけん玉の可能性を信じ、「けん玉」な人生を生きることを決めた砂原さんですが、これからは、以前とは違ったスタンスで、けん玉を広めて行きたいと考えているといいます。
「『競技としてのけん玉道』以上に、『楽しいおもちゃ』としてけん玉を広めていきたいと今は考えています。もちろん、『技を追求して極めていく』というけん玉も素晴らしいです。でも私は、自分が子どもの頃ただただ純粋に遊んでいたように、『おもちゃ』としてのけん玉を広めていきたい。例えばおじいちゃん・おばあちゃんのところにいったら、『青竹踏みみたいでしょ?』と玉を踏むことで身体を動かしてもらったり、『美容にもいいよ?』と顔を転がして笑ってもらったり。子どもたちには、『どうやって遊んだら面白いと思う?』と新しい遊び方を考えてもらったり、逆に算数の授業で利用してもらったり。
けん玉の技にこだわらなくても、子どもたちにも、そして私たち大人には、自分たちで考えて、新しいものを創造していく力があるんです。『大皿、小皿、玉、けん、紐』、けん玉はシンプルだからこそ、無限の広がりがあるんです。」
砂原宏幸さん 日本けん玉協会西広島支部長。日本けん玉協会2級指導員、けん玉道4段。はつかいち観光親善大使(2008年4月~2010年3月)も勤めた。 |